田代一倫写真展「椿の街」
寄稿 山田文(翻訳家)
2026年1月4日~25日の土・日・祝 12:00~19:00
韓国南部・北部九州一帯の椿の花と肖像写真。2004年から2024年にかけて各地で撮影された写真を展示する。
展覧会助成:宇久美術基金



寄稿 山田文(翻訳家)
田代一倫はきわめてストイックな写真家である。20年以上ひたすらポートレート写真を撮りつづけている。被写体は街角でたまたま出会った人たちだ。特段ポーズをとるわけでもなく、その多くが正面から写真に収まっている。カメラの設定もあまりいじらないという。その写真は衒いや外連味とは無縁である。キャプションがつく場合も、撮影の状況を示す最小限のことばが添えられるだけだ。過剰な物語性はあえて斥けられている。
だが、いや、だからこそ、田代一倫の写真はきわめて雄弁である。田代の作品を見る者は、ひとりひとりの人の何かに触れ、ひとつひとつの街の何かに触れる。そして、その作品のストイックさが深い内省と葛藤の結果であることを知る。声高にそれを語るからではない。一枚一枚の写真にそれがにじみ出ているからだ。展示全体からそれが浮かびあがってくるからだ。
「椿の街」も、まさにそうした展示にほかならなかった。作業服を身につけ、干し草用のフォークらしきものを手に直立する男性のポートレートからはじまる展示は、dongbaekのロゴを彷彿とさせる椿の花の写真へとつづいていく。ポートレートの合間に風景や植物やものが挟まれる。どれにもキャプションはついていない。見る者は人や植物やものと直接向きあう。人の表情や服装や背景から何かを読みとり、何より生活と人生のなかでその人をその人たらしめている何かに触れる。
とりわけ印象に残った一連の写真がある。一枚目には海上に浮かぶ島が写っている。二枚目は船のデッキに立つ若い女性の写真。逆光で顔はよく見えず、手に持ったユニクロの紙袋の赤が映える。三枚目は船内で窓際に腰かける白髪の男性をとらえたもの。うっすらと浮かべた笑みには、人生のあらゆるものが反映されているかのような静かな深みがある。理屈はわからない。だがこれらの写真を見ると、その人たちとその世界にひきつけられずにはいられない。見なおし、さらにもう一度見たうえで、展示全体をあらためてひとめぐりすると、人と世界を愛おしく感じずにはいられなくなる。
展示の冒頭に掲げられた説明には、博多と釜山を結ぶフェリー「かめりあ」=Camelliaが椿を意味すること、韓国南部でも九州北部でも椿が広く見られることが記されている。田代が2001年に初めて韓国を訪れたときに、年配の男性から「なぜわたしが日本語を話せると思いますか?」と声をかけられたことも。
もちろん、それは展示を見る者の導きの糸となる。だが、田代の作品の重みは、あくまで一枚一枚の写真にあり、そこに写ったひとりひとりの人物にある。それらひとつひとつの小さなものの膨大な積みかさねにある。展示された写真の一枚一枚と向きあい、最後に遠くから撮影された椿の花の群れを見るときに、はじめてメッセージが浮かびあがってくる。そこにはたんなるかけ声にとどまらない重量と手応えがある。
かつて正岡子規は「写生」の意義を説き、こう記した。「印象の明瞭なる句を作らんと欲せば高尚なる理想と茫漠たる大観とを避け、成るべく客観中の小景を取りて材料となさざるべからざること」。田代の写真の印象が明瞭なのは、まさに客観中の小景をとって材料としているからではないか。そして、そうした営みのひとつひとつこそが、理想へと向かう一歩一歩にほかならないのではないか。韓国との個人的なかかわりについて、田代はこう述べている。「お互いを知ろうとすればするほど、親しみだけでは乗り越えられず、遠回りが必要なことがあるとも感じるようになった」。こうした遠回りの結果でもあるこの作品群は、写真に何ができるのかを示している。





